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二重責任と内部統制


二重責任の原則

 意義

監査制度を支えている原則として、この原則は教科書の一番初めに記載されているが、なぜか経営学の教科書やコーポレートガバナンスの教科書には書かれていない。しかしICFRの制度はこの基本原則に基づいて作成されていることが、その構造が、「内部統制の定義」「経営者による評価」「監査人による監査」という構成になっていることからもわかる。

すなわち、世間のお金を預かって企業活動を行い、その結果を財務情報として取り纏め報告して説明する責任は、会社財産の受託者である経営者の一義的責任であって、他の誰に置き換わるものではない。会計監査制度は、経営者がこの責任を果たしているかどうかについて、監査証明という形で意見を述べることにより、経営者による財務報告の適正性を側面から確保しようとするものである。つまり、虚偽表示の含まれる財務報告には、会計監査人は虚偽表示が含まれる旨を意見として述べる責任があるが、その虚偽表示を訂正する責任はあくまでも経営者にある。

同様に、財務報告の適正性を確保するための会社内の体制を整備し運用し監視し改善することも、適正な財務報告をしなければならない経営者の責任の一部である。

この結果をまとめると次のようになる。

    1. 経営者はたとえ監査制度がなくても適正な財務報告を行う義務がある
    2. 経営者は監査人の意見を以って自ら作成した財務報告が適正であると主張できない
    3. 虚偽表示を防止発見するのは経営者の執行責任の一部
    4. 監査人は財務諸表の作成者になってはならない
    5. 監査人は企業からは独立した立場で意見を述べなければならない

 原則ではなく原理

したがって、財務報告における二重責任とは、例外の存在を想定する「原則」ではなく、監査制度の成立基盤である「原理」であり、それが成り立たなくなると監査制度自体が自壊することになる。

 財務報告における経営者の責任と内部統制

経営者の「アカウンタビリティ」

アカウンタビリティという用語は、会計・監査の世界では「会計責任」「説明責任」という日本語でごく普通に使われる概念である。しかしこれは単なる法律上の責任を言っているものではなく、当事者間における当為の責任を言っていると考えられる。すなわち、財産の収益を託された人が、託した人に対して当然に持っている責任であり、その一つは、誠実にその託された財産を用いること、もう一つはその財産に対しての自分の判断、行為及びその結果に対する説明報告である。

例えば、子が親に、「おやつを買うから、小遣いをくれ」と資金調達を依頼し、親は自ら店舗に行きおやつを買うようなことはせず、一定範囲の金銭を子に与え子自身の判断で買わせる。この関係には、「親からもらう小遣いは無駄遣いしてはならない」という子自身の責任意識と、「自分の子は嘘をついて小遣いをせびったり、違うことにお金を使ったりしない」という親の期待がある。ここに見られる、親が子に対して抱いている常識的期待と、子が親に負っている精神的義務の関係が、アカウンタビリティという概念で説明できるだろう。つまりアカウンタビリティとは信義誠実原則の一側面と考えられる。

元来、accountという言葉には、「書かれたもの」「言葉にされたもの」という意味が込められている。したがって株主を通じて社会の財産を付託された経営者は、株主を通じて社会に対して期待に応えるべく判断し行動し、行為及び結果を言葉にて説明しなければならないのである。

財務報告は、その一環として行われるものであり、当為の事項を制度として定めたのが会計開示に関する諸規則である。したがって、アカウンタビリティという概念の下に、会計開示のルールは必要最低限のことを明文化したまでであり、「経営者は信義則に従って行動する」という諸前提が否定された瞬間に、それは機能しなくなる。

翻せば、経営者の判断や行為は受委託者の関係下において最大限尊重されるべきものであり、会計・開示ルールは罰則のために用いるべきものではなく、あくまで信義則という概念の下で経営者が明確な説明義務を果たしたかどうかという点を重視すべきである。

例えば、過去、数年分もの不良在庫を正常資産として報告する行為には、虚偽報告の問題として捉える前に、斯様な不良在庫を抱えること自体の経営判断としての適切さの問題をきちんと議論して社会的判断を加えなければ、ことの本質をすりかえた議論になってしまい抜本的解決には至らないだろう。もっとも、虚偽報告の下には外部者は判断のしようがないので、やはり虚偽報告の疑いを持たれた段階で、信義則に基づく受委託関係は決裂していることになるのだろう。

財務報告が適正と言えるには

「適正な財務報告」とはどういうことを言うのかという問題は、二つの側面から議論されている。

一つは、財務報告の結果(目的)からの議論であり、財務報告の利用者(一般には株主、銀行などの投資家や債権者)が会社の実体についての判断を誤らない程度に正しく作成表示されている財務報告を適正なものとする考え方である。

もう一つの議論は、財務報告の作成過程(手段)からの議論であり、財務報告の個々の情報が企業活動の実態に基づいて正しく作成されていれば、結果としての財務報告は適正なものであると推定できるであろうという考え方である。

会計監査における適正性の判断過程

会計監査は前者の目的に対する次元での判断を、後者のアプローチによる検証を通じて意見を述べる。すなわち後者のアプローチは、基本的には企業の全ての情報が適切に財務報告に反映されなければならないことが期待されているが、財務報告の利用者が判断を誤らない程度にという目的によって、その精度レベルを一定水準まで下げている。監査報告書に記載されている文言は、「全ての点において」適正とは言っておらず、「全ての重要な点において」適正であると言っているのは、その意である。

したがって、会計監査における「適正意見」は必ずしも個々の財務報告が適正であるということにはならない。監査報告書に記載されているように、会計監査人の意見はあくまでも「財務諸表全体として」述べられているのである。

なお、天気予報などで「晴れ」という場合、雲量が2〜8割で雨が降っていない場合を言うそうだ。このように明確な定義があるものの、まず量的判断基準においてかなりの幅があることがわかる。さらに雲量の測定は「目視」によるものらしい。つまり観測者の主観と経験に基づく判断なのである。

この「晴れ」と「適正」には、全く違う分野でありながら、その判断にかなりの幅があること、情報利用者によってその意味するところが異なること、判断には経験的裏付が必要なこと、などの共通点がある。「財務報告の適正性」といっても、雲量2割の快晴に近い晴れから、雲量8割の限りなくグレーな空もあるということは、世間にもっと周知する必要があるだろう。

経営者の責任

二重責任の一翼を担う経営者は財務報告の適正性に関して自ら疏明する義務を負うことになるが、会計制度や開示制度は財務報告利用者に対する財務情報の開示要件について必要最低限のことを取り決めているだけなので、経営者はより適切に企業実態を理解してもらう(理解を誤らせないだけでなくより理解を広げたり深めたりする)ためには投資家広報(いわゆるIR)活動などを行なうことになる。

そのような一連の経営活動に必要な財務報告の適正性を疏明するにあたっては、経営者は論理的帰結として、結果からではなく財務報告の作成過程を検証することによってしか、自らの財務報告が適正であるとの主張ができないことになる。換言すれば、財務報告の利用者が判断を誤らない程度に適正であるという点に関する疏明責任は、外部監査人の監査証明によって解除されていることになる。

経営者の主張

財務報告の作成過程から財務報告が適正であることを主張するためには、財務報告の個々の項目が適正に作成されていることを立証することが必要であるが、勘定科目や報告内容の属性によって、ばらつきがあるため、一般的には「アサーション」という形で整理されている要件を用いる。つまり経営者はアサーションを確保することで、個々の財務報告項目ひいては全体としての財務報告が適正であると主張できることから、このアサーションの確保が経営者にとっての内部統制の目標となる。逆に見れば、この統制目標が確保できないことが、財務報告上の虚偽記載のリスクと言うことになる。

リスクを顕在化させる要因は多々あるが、それを直接的間接的に防止発見するための手段が、統制手続をはじめとする財務報告に係る内部統制の基本要素である。

監査要点との関係

経営者のアサーションすなわち統制要件は、会計監査人にとってもそれが期待したとおりに機能している限りにおいては財務報告の信頼性を担保する一要因となることから、監査上でそれを監査要点として捉え検証することで財務報告の信頼性に関する心象形成の一助とする。したがって、会計監査人の監査要点と、経営者の統制要件とは、財務報告に関するリスク認識が一致していれば、重複する部分が多い可能性が高い。


※ちょっと一言
  • アサーションは、心理療法の世界では、「さわやかな自己主張」という意味で使いようです。自分の気持ちや考え方を相手に伝えるが、相手のことも配慮するやり方、自分も相手も大切にしたやり方をアサーティブなコミニュケーションというようです。もともと、アサーションには、妥協や合意という根本的な意味が含まれているような気がします。 - shibayan (2008年03月16日 11時39分33秒)
  • ascertainという動詞も、医者が病気を確かめるとか、実否を突き止めるという意味があるようです。心証形成という概念に近いのでしょうか。proveは実証することですから主観は入っていませんね。 - なわ (2008年03月16日 13時42分06秒)
  • Audit は 「聴く、聞く」が語源とのことです。 - shibayan (2008年04月08日 16時53分05秒)
  • そういえば、「疏明」って最近使わないですね。 - shibayan (2008年04月08日 17時00分47秒)
  • 聴衆をaudienceといいますね。audienceの前で責任遂行を疏明する行為がauditです。 - なわ (2008年04月09日 15時44分15秒)

【本文脚注】


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