!!!1-1-2 コミュニケーション市場と通信事業 まずは通信事業者が社会に提供しているサービスによって実現され、通信事業の存在意義とも言えるコミュニケーションというものを明らかにした上で通信事業について考えてみましょう。 !!1-1-2-1 コミュニケーションとは コミュニケーションとは、意思を持った者同士の「意味」の交換です。 意思とは「こうしたい。したくない。」といった生物の行動の方向性であり、その元となるエネルギーのことを意味と考えましょう。 コミュニケーションとは、当事者間が意味をやりとりすることですが、ある人にとっての意味は通常は言葉という記号に置き換えることによって他の人に伝えられます。 意味を伝達するには記号を共有していなければなりません。例えばどんなに明確にしゃべったとしても、フランス語でしゃべられたら、日本人の私には何もわかりません。しかしフランス語を勉強することで相手と「記号」を共有することができます。 つまり、「意味−記号−意味」というつながりでコミュニケーションが成立します。 記号を共有しなければ意味が通じないことを逆手に取ったのが暗号です。 当事者間であらかじめ決めておいた元の記号と表記する記号の対比表をお互いが共有し他の人には秘密にすることで、暗号のやりとりが可能になります。 しかし「意味」を交換するためには記号としての言葉を勉強するだけでは不十分で、背後の文脈を相手が知っていなければ、言葉は通じても意味は相手には通じません。 「いたい」という記号が自分に伝わっても、「その場所に居たい」のか「腹が痛い」のかは、相手の置かれている状態(すなわち文脈)がなければ意味不明です。よく聞く例として、都会で下宿している貧乏学生が生活に窮して実家の父親に「カネオクレタノム」(金送れ頼む)と電報を打ったところ、これを受けた父親は「金をくれた 飲む」と解釈して激怒したという話があります。都会で下宿をしている息子の様子(つまり文脈)が父親には存在しなかったわけです。 また同じ言葉を使っても当事者間での文脈が異なっていれば、意味は違って解釈されます。これはよくある「誤解」の原因でもあります。 「リンゴのような頬の女の子」といえば、冬の寒い日でも健康的に外で遊ぶ女の子を想像しますが、それはリンゴが赤いというコンセンサスが我々日本人の前提にあるからです。例えば青リンゴが主体の国では「顔の青ざめた貧血気味の女の子」を想像することになるため、意味は全く逆に伝わってしまうでしょう。 さらに当事者間で強い文脈の共有があれば、わずかな記号でも意味の交換が可能です。 世界で一番短い手紙として、往信が「?」で返信が「!」という話を聞いたことがありますが、「売行きはどうですか?」、「絶好調!」という意味だそうです。 2004年3月12日初稿 !!1-1-2-2 通信とは 言葉という記号は一般に文字で表現されますが、この言葉を「声」に変えて相手側に伝達し、相手側では声を言葉に再変換してそこから意味を読み取ることができます。 つまり、当事者間の意味の交換は、意味が言葉へ、言葉が音声へと変換され、相手に届くときにはその逆の流れを経ます。「(自分にとっての)意味−記号−信号−記号−(相手にとっての)意味」、という流れを必ず経ることになります。 信号は必ず何らかの媒体を経なければ相手に伝わりません。 例えば上に出てきた「音声」は空気という媒体が振動して相手の聴覚を通じて伝わります。 記号としての文字は紙媒体に載せられ、光媒体によって人間の視覚に作用して初めて伝わります。 通信という言葉は通常communicationsと訳されます。複数形を用いるのは、通信は必ず当事者が二人以上いないと成り立たないからだという話を耳にしたことがあります。 が、日本語ではコミュニケーションと通信とではやや異なるような印象を受けます。というのも通信という言葉は光通信とか無線通信など、やや技術的な印象を与えるのに対し、コミュニケーションというともっと広い一般的な意味で使われることが多いからではないでしょうか。 日本語では、人間同士の直接的な五感を通じた意味の交換をコミュニケーションと呼び、その中でも自然な状態で五感が使えないケースで何らかの道具を用いたときに通信という言葉が充てられているのではないでしょうか。 なるほど、人間の五感が及ばない遠隔間においてはじめて通信は存在意義を持ちます。 昔々の電気のまだない時代にも、遠隔間コミュニケーションは存在しました。 一般的には「手紙」が思い浮かびます。例えば、江戸時代には飛脚という「走る郵便屋さん」がいたことはよく知られてることです。 戦国時代には敵情を報告するために見通しのよい丘の上で木々を焚いて煙を発生させる「のろし」が用いられたようです。 江戸時代に大阪堂島にあった米相場の情報も、のろしを用いて周辺の地域に伝達されたという研究もあります。「のろし」はかなり古くからある遠隔地コミュニケーション手段で、地方によっては「火の山」という俗称のついた丘があって、往時にのろしを上げたと想像できる土地もあります。 ちなみに「情報」とは「敵の情勢を報知する」という軍事用語で明治時代にできた言葉のようです。さらに余談ですが、最近はせっかくの情勢の報知(情報)があっても「情勢を放置する」困った会社もよく報道されます。 ボーイスカウトや海洋少年団で教わる手旗信号は、紅白の旗を持って腕で文字を描きながら相手に伝える交信方法で、声が届かない船と船の間などでも視界の範囲であれば十分に交信が可能です。さらに遠くなれば光の点滅を用いたモールス信号も使えます。 お寺の梵鐘の「ゴーン」という音も、時を告げるという点で立派な通信であるでしょう。 このように、人間の五感による直接的な意味の交換では物理的な限界がある場所、つまり遠隔間で何らかの道具を使って行われる記号の交換を通信と呼んでいます。 英語の世界でもcommunicationsという言葉をより限定的明示的にするために、telecommunicationsという言葉を用います。"tele-"とは遠いという意味を持つ接頭辞で、辞書を引くと、television (テレビ)、telephone (電話)、telegram(電報)、telemetrics (遠隔監視)、telescope (望遠鏡)、などのように、全て距離があるものに使われています。英語のtelecommunicationsは直訳すると「遠信」となりますが、なんとなく雰囲気は伝わりますね。ちなみに中国語で「信」は手紙{{fn 蛇足:中国語で「手紙」とはトイレットペーパーのことです}}という意味です。 2004年3月14日初稿 !!1-1-2-3 通信事業とは 往時の通信は、信号を音や文字といった人間の五感に作用する形で伝えて行われているために、人間の五感が及ばない範囲では利用できないという性格がありました。 これを電気的な信号に変換して伝える手法が発明されたのは19世紀です。 日本に電気通信が紹介されたのは、ペリーの二度目の黒船到来時1854年の電信に遡ります(中野, 2004)。電信とはモールス符号(音の長短の組合せにより文字を表現する)による文字記号の送受信のことです。 既に西南戦争の時には明治政府軍側は電信を用いており、西郷軍の状況を熊本城の本営に伝えたり、逆に本営から前線へ命令を出したりしていたようです。 通信事業者とは、このような「記号−信号−記号」の関係を、特に電気的な技術を用いて遠隔者間を繋ぐことによって、その対価をもらうことを業としている会社のことを言います。 電気的というのは、電気通信事業者ということばもあるように、通信が電気技術を利用して提供しているからです。 また、国際電話やインターネットメールのように距離があっても交信が実現される点が、場所を意識しないでお互いの意思疎通ができるという現在の社会状況をもたらしたいうことになるでしょう。 まさにそれがコミュニケーション・サービスということであり、通信事業者の存在意義ということになるのではないでしょうか。 通信をサービスとして提供するビジネスは、「意味−記号−信号−記号−意味」の流れのうち、「記号−信号−記号」の部分を請負って、コミュニケーションの素材として提供しているわけです。 2004年3月12日初稿 !!1-1-2-4 消費者にとっての通信と3つの"con" ここでは、通信産業が市場でどのように位置付けられるかということを考えるために、消費者によって通信産業がどのように利用されるかという観点で捉えてみることにします。 :意味としてのコンテキストcontext: メディア市場は大雑把な言い方をすれば、何からの「感動」を消費者に提供する産業です。感動とは「楽しい」「面白い」「悲しい」といった心の働きを一纏めにした言葉ですが、メディアはこれらを媒体(medium)して、人から人へと感動を伝える役割と果たします。mediaとはmediumの複数形であり、mediumは元々はラテン語で「中」とか「間」という意味のようです(ステーキの焼き加減でも「中くらい」の意味がありますが・・・。)。 心の働きは人それぞれが自由ですから、感動はその人の置かれた社会的、物理的な状況によって大きく変わることになります。ある映画を観て、つまらないと思う人もいれば痛く感動する人もいることは、それを端的に表しています。 逆の見方をすれば、メディア産業はそのような状況(context)依存型の産業であり、状況を作り出すことも大きな役割を果たしています。同じフィルムでも映画館の大スクリーンで観るのと、自宅のTVでVideoを視るのとでは、受ける感動が異なります。 2004年02月22日校正 2004年02月14日初稿 :記号としてのコンテンツcontents: コンテンツがデジタル符号化されたデジタル社会では、そういった様々なcontextに対して、共通にcontentsを提供することができます。つまり、インターネット経由でPC画面を通じて音楽を聴いたり、CDを購入したりできます。 一方、コンサートを聴いたり、ミュージカルを観にいったりするのは、まったく逆のアナログな世界です。アナログコンテンツは、ある時間と空間に限定されて発生し、そのまま消滅してしまいますが、これをデジタル化し複製することで、より多くの人がコンテンツから感動や知見を得ることができることは、すばらしいことです。また、アナログコンテンツがデジタル化されたからといって、アナログコンテンツの持つ価値そのものが変わるわけではないでしょう。そうでなければ、一度上演された歌舞伎やミュージカルは、デジタル化されることで全く観客がいなくなってしまうということになりますが、そのような話は聞いたことがありません。アナログコンテンツは常にコンテキストと共に提供されており、コンテキストの価値を人が認め、その時間と空間にふさわしいコンテンツである限り、その価値は変わらない筈です。 2004年02月22日校正 2004年02月14日初稿 :信号を蓄積し運ぶコンテナcontainer: こういったアナログコンテンツをデジタル化し、パッケージ化し、流通させる部分がコンテナ(container:容器)です。 つまり、光や音といったアナログ信号がデジタル変換されビット信号となり、その信号が蓄積され運搬され相手に届けられ、感動を得たい人が端末機などのツールを使って再度アナログ変換するまでがコンテナ部分です。 まさに、このcontainer部分こそが情報通信産業の果たす重要な役割が帰属するレイヤーということになるでしょう。 Created:2004年02月14日 Updated:2004年02月22日 !!1-1-2-5 技術の変遷 通信を取り巻く状況は、ここ90年代あたりから大きく変化してきました。 ここでは、変化をもたらしたいろいろな要因について考察してみます。 !要素の変遷 要素とは通信に用いられている色々な原理のこととします。 :コンテンツ:アナログからデジタルへ: 最も大きな影響を与えたのは、通信の方法がアナログ方式からデジタル方式に変わったことであると言われます。 これは、音声通信からデータ通信へと変化したという言い方と混同されることがありますが、音声通信とて現在ではデジタル伝送技術で実現されているわけですから、正確な言い方ではありません。 かく言う私も技術的にその違いを説明できるわけではありません。表現方法として、アナログ信号は「波形」で表現されるのに対し、デジタル信号は0と1の符号の組合せで表現されるということです。 言えることは、アナログとデジタルとでは、コンテンツの扱い方が全く異なっており、デジタルコンテンツのほうが圧倒的に扱いやすいということです。また、符号というレベルでは音声であっても画像であっても映像であっても、同じように扱うことができることができることは、容易に想像がつきます。 一昔前にあったレコードを聞くには、レコードの溝に刻まれたアナログ信号を針でピックアップして電気信号に変え、これを増幅させてスピーカで聴くという方法が採られました。ところがCDに記録されたデジタル符号はレーザー光線で0と1の符号を読み取って、そこから音声に変換されます。 両者の大きな違いは、デジタル符合は全てを0と1で表現しているため、同一物を作成することが簡単にできるということです。逆にいえば、原版からコピーを作成しても、どちらが「本物」であるかどうかは関係なくなります。 一方、アナログ信号が刻まれたレコードは、溝に刻まれた物理的な形が微妙に違うことで、オリジナルとコピーとの違いが出てきます。 複製を繰り返すことによって、信号が「劣化」していきます。 つまり通信手段のデジタル化はコンテンツのデジタル化を後押ししたことになります。またコンテンツがデジタル化されることによって、パソコンなどのデジタル情報機器で誰でもコンテンツを扱えるようになったことから、情報の利用態様に広がりや奥行きが出てきます。 初版:2004年05月02日 :通信手段:専用から共用へ: デジタル化はもう一つのメリットをもたらしました。 それはコンテンツが0と1の符号で表現されることから、たとえ複数のコンテンツを混在させても、ある一定のルールがあって符号の復号さえできれば、複数のコンテンツを同時に扱えるということになります。 つまり、一つの通信手段を同時に他用途に用いる多重化が可能になります。 イメージとしては、アナログ通信の場合は、赤い水と青い水とを混ぜることができなかったため、それぞれに水を送る手段を考えなくてはならなかったのに対し、デジタル通信の場合には、赤い玉と青い玉とを混ぜたとしても受け取った側がそれを識別できれば、別々に戻せるようなものです。 典型的な例が、家庭に引かれたIP回線が、電話とインターネット通信と両方同時に使用できることなどでしょう。 通信手段の共用は、当然に通信の効率化をもたらしますから、コスト・パフォーマンスがよくなります。従来は、トラック専用、バス専用、乗用車専用というように道路を用意していたのが、みな同じ場所を走ってもいいことになるわけですから、レーンの「空き」を上手に見つけて全体を効率よく流すことができます。 DSLは、物理的な銅線を流れる電波を帯域ごとに用途を分けて、電話とデータ通信とを同時に利用できるようにした技術です。面白いのは、このデータ通信部分を利用して音声信号をデジタル化して流すことができますから、電話が二つ使えるということになります。 Created:2004年05月02日 :有線から無線へ: 無線とは電波を利用して通信する技術です。 しかしこれはやや曖昧な言い方です。というのも有線であっても電波が流れていることに間違いはないからです。 電波は同じ周波数のものが同じ場所に存在すると混信します。 受験勉強をしている頃、深夜放送を聞くと共産圏の放送が混信して聞きづらかったことを思い出します。 有線はこの電波をお互いに混ざらないように導線という物理的空間に閉じた形で信号を伝達することができます。逆にいえば、線の繋ぎ方で通信を制御することが可能です。かつて市外電話に100番通話というのがあって、交換手の人に相手の番号を伝えて文字通り繋いでもらった記憶のある世代は私が最後でしょう。 有線通信は線の繋ぎ方で通信を提供することになるため、利用者は当然に線の存在によって制約を受けますし、供給も線が張れるかどうかという制約を受けることになります。 無線通信はこういった物理的制約から解放された通信サービスを生み出します。典型的な例は爆発的に普及してしまった携帯電話でしょう。 たとえ電話というサービスの持つ意味は全く同じであっても、線による物理的制約を受ける固定電話と、電波の繋がる場所であればどこでも使える携帯電話とでは、電話の持つ意味(コンテキスト)が全く変わってしまいます。 初版:2004年05月02日 :銅線から光ファイバーへ: 銅線の中を電波信号が流れる伝送方式から、光ファイバーの中を光の点滅で伝送する方式へと変化しました。 光ファイバーは髪の毛くらいの太さであるため、銅線よりも物理的に細い束でより多くの伝送容量を得ることができます。また金属の銅線よりも軽いため人間にとって扱いやすいものとなります。言い換えれば、より少ない工数でより多くの伝送容量を用意できるわけですから、当然に伝送容量単位あたりの通信コストの低減をもたらします。 また、大容量通信が可能になることから利用態様に幅が生まれます。 Created:2004年05月02日 !!事業上の稀少資源 技術の開発は事業上の稀少資源の有効利用を巡って行われる。 :例えば電波: PDCからCDMAへ :例えば中継回線: 銅線から光ケーブルへ 無線から光ケーブルへ WDMの開発 :例えばアクセス回線: アナログから総合デジタル通信網(ISDN)へ ISDNからxDSLへ !!用途の変遷 音声からデータへ 固定から移動へ 構造の変遷 持続的技術と破壊的技術 相互作用型からモジュール型へ 垂直型から水平型へ !!構造の変遷 :持続的技術と破壊的技術: :相互作用型からモジュール型へ: :垂直型から水平型へ: !!1-1-2-6 デジタル化のもたらすこと 以上の「3つの"con"」の議論、そしてコンテンツのデジタル化から、次のようなことが言えないでしょうか。 !コンテンツと状況依存 アナログコンテンツはコンテキスト共に提供されるから、存在が強く状況に依存し、消費者は両者を切り離して消費することはなかなか難しい。 一方でデジタルコンテンツは、デジタル変換されることでコンテキストからコンテンツが一旦は切り離され、消費者が自らのコンテキストに応じた形でコンテンツを消費することができる。 つまり、コンテキストの形成が消費者に委ねられており、そこに新しい価値を消費者が見出す可能性があることになります。 これはなにもデジタルコンテンツに限ったことではありません。モノとしての商品とコトとしての対象とは、本来的に意味が異なります。八百屋でリンゴを探している人に、「甘くておいしい」リンゴを店主が勧めても、その人はデッサンのためのオブジェとしてリンゴを探しているのかもしれません。 映画ファンの人の中には、「映画は映画館で観るから映画なのであって、TVで観る映画は映画ではない。」という方がいらっしゃいますが、上記の議論を踏まえて言い換えると次のようになるでしょう。 「映画フィルムに記録されたコンテンツが映画館というコンテキストの中で光と音のアナログ信号に変えられ上映されることを映画という。しかし、映画フィルムをTV受像機でアナログ変換したものは、映画とはコンテキストが異なっている。」 また、読書ファンの方々の間では、「本は手にとって読むもの。(電子ブックなどは本ではない。)」という声をよく聞きます。これも次のように解釈できます。 「読書とは、著作者が書き表したものを紙冊子という媒体で手にとって読め、書き込み、なおかつ、そのまま保管できる状況にあるときにはじめて可能な行為。電子ブックは活字を読むという点では読書と共通しているが、端末機を使って活字を読み、テキストを書き込むことは、読書とは異なった行為である(例えば、書物を写したビデオがあってそれをTV受像機で読むことを、さて読書というのだろうか?コンテキストが違うのではないだろうか?)。」 Created:2004年02月14日 Updated:2004年02月22日 !コンテンツは道具さえあれば誰でも平等に扱える 通信産業は、消費者にコンテナを提供することを第一義としますが、消費者がそのコンテナを選択するのは、そしてコンテンツを運搬してもらうためだと言えます。 そして、コンテンツの扱いは道具さえあれば(デジタルディバイドなどの社会的制約を除けば)誰でも平等に扱うことができます。 コンテナの消費者(つまり通信サービスの利用者)はコンテンツの生産者でもありえます。 コンテンツの生産者であれ消費者であれ、コンテナ消費者による通信事業者の選択は、その消費者にとってのあたらしいコンテキストの選択であるということになります。 Created:2004年02月14日 Updated:2004年02月22日 !市場の多様化 消費者にも、電話のように誰でも欲しい基礎的なサービスだけで十分だという人もいれば、ネットワークを利用した新規ビジネスを興したいという高度なサービスを求める人まで、様々な利用者が登場することとなります。 このように消費者の利用方法が拡大するということは、通信サービスも複雑になっていくことになり、事業者によっても得意分野と不得意分野とがでてくることになります。 そうなれば、新しい利用方法を巡って、従来なかった企業が市場に参入して新たな価値を生み出すことができます。 つまり、社会インフラを整備するために国営企業を用意して資金や人材などの資源を集中させ、一方で規制によって独占利潤を保証しつつインフラ整備のためにいろいろな義務を課すという国策型の事業運営方式は、様々な可能性をもった市場にはなじまなくなってきました。 これが世界的な傾向として、国営企業が民営化されて、通信市場が自由化され参入や撤退が容易になる理由として説明できるでしょう。 Created:2004年05月02日 !!1-1-2-7 通信事業のValue Chain !Product−Application−Solution :Product層: いわゆる素材としての通信サービス ATMとかIP-VPNなど :Application層: 役務の直接的利用形態。 例えばIP-VPNを社内LANで使用するなど。 広域LANを使ってISP事業を行うなど :Solution層: Contextを実現する層 社内LANを使って何を実現しようとしているか。 イントラネットを使用した情報共有など。 !!1-1-2-8 Product層の階層分化 物理層−サービス層−アプリケーション層 :物理層: 光ケーブル、ルーター、無線アンテナなどの機器構成をいう。 :サービス層: 物理層を利用して提供されるパッケージ化された役務のこと 例えばIP PhoneなどはxDSLと音声通信を組み合わせた商品